絵本の挿絵が一枚絵に独立した当初から、浮世絵は歌舞伎役者と高位の遊女の姿絵を中心に発展した。 役者絵と美人画には、どちらもまるで芝居の一場面を見ているような印象がある。
役者も遊女も自分を美しく見せることが商売。 しかし華美になりすぎないよう、着物の素材、化粧、髪形、古典舞踊を思わせる動作にまで、幕府の細かい規制を受けていた。 そのためか、役者絵には凛とした厳しさが宿り、美人画は静かなたたずまいの中にほのかなエロチシズムが漂っている。
江戸時代、幕府は治安と風俗の乱れの取締りを図って全国に遊郭を設置し、そこに遊女を集めた。 つまり遊郭の遊女は幕府の許可を得た公娼なのだ。 これに対して、遊郭以外の風俗街(江戸では岡場所といった)の女はみな私娼となる。 数ある遊郭の中でも特に有名なのは、江戸の吉原だろう。 吉原遊女の最高位には才色兼備の太夫(たゆう)が長く君臨していたが、次第に数が減少し、 宝暦(1751-64)末頃に消滅。それまで中位だった散茶(さんちゃ)がこれに代わり、 やがていくつかの階級に分かれて、呼出し、昼三(ちゅうさん)あたりの上級遊女が 別称で花魁(おいらん)と呼ばれるようになった。
太夫や花魁は今でいえば、人気女優やスーパーモデルに匹敵する大スター。 客に招かれた太夫が住まいである遊女屋から客の待つ揚屋(あげや)へ行くことを揚屋入りといい、 のちに観光ショー化して、毎日夕闇が濃くなる時刻に行われる花魁道中となった。 この時、太夫や花魁は華やかに盛装し、見習い遊女や傘持ちらを従えて、しずしずと通りを練り歩く。 それをひと目見ようと殺到する熱狂的な群集は、現代の一流ファッションデザイナーのコレクションや、 大ヒット中の舞台につめかける人々の姿にも重なる。
太夫は大名、公家、豪商らの相手を務めるため、古代ギリシアや中世・近世の西ヨーロッパの貴婦人のように、 ただ美しいだけでなく高い教養を身につけていなければならなかった。 琴、三味線、舞踊、華道、茶道、書画などをすべてこなし、さらに古典文学、和歌、漢詩といった中世貴族文化にも 精通していることが求められたのだ。
とりわけ大事だったのが、幅広い話題に当意即妙に応じる話術。 囲碁、将棋、すごろくのたしなみも欠かせず、部屋には必ず道具一式が備えられていたという。 この3つの中では、碁がもっとも多く美人画に登場する。 盤をはさんで相対するこうした遊戯は、遊郭において男女が対等な関係になる、もうひとつのゲームだったのではないだろうか。
吉原は一般社会から隔絶された場所であることを示すため、周囲を<おはぐろどぶ>と呼ばれる溝で囲まれていた。 唯一の出入口である大門(おおもん)をくぐると、多くの遊女屋、揚屋、客を遊女屋へ案内する 引手茶屋(ひきてぢゃや)のほか、仕出屋、小売商、質屋、銭湯などが建ち並ぶ。 いわば一大歓楽街であり社交場でもあったわけだが、それだけでなく、浮世絵、文学、演劇、女性のファッションなど、 文化と流行の発信地という側面もあわせ持っていた。 となれば、浮世絵師たちが入り浸っていたのもうなずけるだろう。 吉原の売れっ子や新進遊女の姿絵を飽きるまで眺めていたい。安い値段でたくさん買いたい。 絵師たちはそんな庶民の要望に、せっせとこたえていたのだ。
天保の改革(1841−43)の際には、浮世絵、歌舞伎、文学の作品中に、実在の人物の名を出すことが禁じられた。 それでも浮世絵は禁令を巧みにかいくぐって出版され続け、極めて様式化された理想的な美学を追究していった。
遊女の美しさは歌舞伎と同じく、型がいかに洗練されているかにかかっている。 浮世絵では遊女の顔は顔立ちも表情もほぼ似通っており、見る者が自由に想像をめぐらせて楽しんだ。 そのぶん絵師たちが描写に力を入れたのが、最新流行のファッションだ。 禁令などどこ吹く風とばかりに贅をこらした、きらびやかな着物、独創的な髪形、派手な櫛や笄(こうがい)。 そのデザイン、繊細な模様、髪の一本一本までが精密に再現された浮世絵を、人々はこぞって買い求めた。
浮世絵に登場する美女たちははじめは高位の遊女ばかりだったが、時代が下るにつれて、もっと下位の遊女、 岡場所の私娼、芸者、水茶屋の女、評判の町娘へと対象が広げられた。 庶民の好みも時代とともに変化している。初期には豊満で野性的な美人像がもてはやされていたのが、 錦絵の完成された明和(1764-72)から寛政(1789-1801)にかけては、たとえ遊女であっても上品で清楚な風情が好まれた。 その後は成熟したあだっぽい美女に人気が移り、幕末に向けて頽廃美を増していった。
水茶屋は道端や寺社の境内で、茶を出して往来の人を休息させた店。 江戸では宝暦頃からふえ始め、寛政期にもっとも栄えた。 美しい看板娘が客を呼んでいたが、中でも格別人気があったのは<明和の三美人>と謳われた、笠森お仙、柳屋お藤、蔦屋およしと <寛政の三美人>難波屋おきた、高島屋おひさ、菊本おはん(おはんは浄瑠璃の一流派である富本節の名取・富本豊雛 (とよひな)に代えられることがある)(図版10-2)。 いずれも浮世絵に描かれてますます評判を高め、娘目当ての客が引きもきらなかったという。
美人画における巨匠といえば、明和から寛政期に活躍した、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿の名が挙げられる。 印象派の画家たちが浮世絵に影響を受けたことや、後期印象派のゴッホが熱心な浮世絵収集家であったことは知られているが、 彼らが模写した浮世絵師の中には、この3人も含まれていたようだ。 ほかの美人画の絵師たちは、3人の様式にほぼ倣っているといえるだろう。
春信は錦絵と呼ばれる多色摺の創始者。それまでの浮世絵版画は3色使いが限度だったが、錦絵の誕生で 思うままに彩色できるようになった。この技法をもって春信が描いたのは、夢の世界に住む人形のような女たちだ。 清長は大判2枚続から6枚続の大画面いっぱいに、八頭身美人の群像を描いた。遠近法をふまえた写実的な風景も特筆される。 歌麿は大首絵シリーズを次々に手がけ、人気を博した。大首絵とは上半身だけの人物画で、顔を大きく描くことにより 生き生きとした表情が生まれた。一般的に西洋人の目にはその表情の微妙な変化をとらえることは難しいが、 大胆な構図や緻密な描写で海外でも特に人気が高い。