碁盤忠信
7.碁盤忠信
 

「日本の武将のなかで、悲劇のヒーローといえば?」
こんな質問をしたとしたら、もっとも多く返ってくる答は「源義経」ではないだろうか。その義経の忠臣・佐藤四郎兵衛尉忠信(さとう・しろう・ひょうえのじょう・ただのぶ)が主君を護って奮戦した武勇譚は、鎌倉・室町時代を通じて多くの語りや歌に伝誦され、江戸時代に入って劇化されると、ある場面がひときわ大きな感動をよんだ。それは愛人の家に身を隠していた忠信が、女の裏切りによって敵に攻めこまれ、重い碁盤を武器にして応戦したというくだりだ。この場面は今日にいたる後続作品においても最大の見せ場になるとともに、忠信に〈碁盤忠信(ごばんただのぶ)〉という異名を定着させた。そして、さまざまな絵師の手で浮世絵に描かれ、いつしか囲碁にちなんだ画題のうち、もっとも広く知られるようになっていった。

義経の生涯をよく伝えている書物に『義経記(ぎけいき)』がある。これは奥州各地で語り継がれてきたあまたの義経伝説が、源平の合戦後200年以上の歳月をへて、室町初期に読み物としてまとめられたものだ。それではここで『義経記』より、〈碁盤忠信〉にまつわる話を抜粋してお届けしよう。

佐藤忠信は応保元年(1161)に、陸奥国信夫(しのぶ:現在の福島市)の庄司・佐藤元治(もとはる)の子として生まれた。奥州藤原秀衡(ひでひら)の命により、秀衡の庇護を受けていた義経に仕え、義経の異母兄・頼朝が関東で平家追討の兵を挙げると、兄の継信(つぐのぶ)とともに主君に従って頼朝の陣へ馳せさんじる。その後、義経は大功を立てたものの、頼朝の勘気にふれて都落ちし、若くして自害。忠信もまた、悲運の義経と運命をともにするのである。

義経のめざましい働きにより平家は滅び、頼朝は日本全国の政権掌握へむけて大きく前進した。しかし、義経が京都で後白河法皇のひきたてを得ていたことや、梶原景時の讒言(ざんげん)から、頼朝は弟が謀反をたくらんでいると思い、鎌倉からひそかに討手をさしむけた。

文治元年(1185)10月17日夜半、土佐坊正尊(とさぼう・しょうそん:または昌俊(しょうしゅん)ともいわれる)の軍勢100騎が京都六条堀川にある義経の館に押しよせてきた。伝説によれば、そのとき義経は眠っており、美しい白拍子の愛妾・静に揺り起こされたという。館には下人がひとりいるだけだったが、あわやというときに武蔵坊弁慶が、遅れてほかの家来たちも次々と駆けつけ、敵を斬り捨てた(なお、武蔵坊弁慶は義経が衣川(ころもがわ)の合戦で自刃する直前に、敵の矢を満身にあびながら立ち往生をとげたとされており、独自の英雄譚も数多く残されている)。

頼朝はかさねて義経追討の命令をくだした。朝廷は頼朝をおそれ、義経に味方しなくなった。身の危険を感じた義経は西国(さいごく)へくだることを決意し、11月3日、静や忠臣ら多くの従者をともなって都を出立する。一行は大船に乗りこみ、尼崎の大物浦(だいもつのうら)から四国をめざして出帆した。ところがその夜、暴風雨にあい、船は損傷。翌朝にはもとの浦に漂着してしまう。

義経は計画を変更し、かつて世話になった藤原秀衡を頼って奥州へくだろうと考えた。だがこのころには、生き残っていた家来たちまで謀反のとがでおたずね者になり、前例のない大規模な探索が行われていた。そこで義経は頼朝の配下が大勢うろついている京都を迂回し、雪深くけわしい吉野の山奥へと入っていった。つき従う者は20人ほどで、そのなかに忠信と静の姿もあった。女がいては足手まといだ――家来たちのあいだには、そんな不満がつのった。義経は静への未練と、わかちがたい主従の絆との板ばさみになり、思い悩んだすえに静を京都の母のもとへ帰すことに決め、涙の別れをするのだった(このエピソードは、人形浄瑠璃から歌舞伎に移された不朽の名作「義経千本桜(よしつねせんぼんざくら)」の一場面に仕立てられた。作品中、子ギツネが忠信に化身した〈狐忠信(きつねただのぶ)〉が、重要な役割を演じている)。

翌日、一行は吉野山中で、蔵王権現(ざおうごんげん)の血気にはやる衆徒(しゅと:僧兵)らの襲撃を受ける。このとき義経の身代わりとなって活躍したのが忠信だ。忠信は義経から拝領した鎧兜と黄金作りの太刀を身につけ、仲間が雪道を落ちのびていくあいだ、数人の郎等(ろうどう)とともに敵を防いで戦った。味方はひとり、またひとりと討ち死にしていく。忠信も一時は死を覚悟したが、孤軍奮闘のすえ、かろうじて逃げおおせた。

12月23日、忠信は身も心も疲れはてて京へ入り、四条室町の愛人・かや(注目すべきことに、この名前は最高級碁盤に用いられる榧(かや)の木と同じである)の家をたずねた。しばらく身をひそめ、主君の消息をさぐるつもりだった。かやの父は忠信をあたたかく迎えてくれた。けれども、かやは忠信が都落ちしているあいだに、景時の息子で世にときめく梶原景久に心がわりしていたのだ。

年が明けて文治2年(1186)正月5日、かやは景久を家によび、「この家に忠信が隠れているから、めしとって恩賞をお望みなさいませ」とけしかけた。景久は頼朝の忠臣だったが、それを聞くと女の移り気をいとわしく思い、すげなく断って帰ってしまった。このときの景久の心中が、『義経記』には次のように記されている。

ただ疎(うと)ましきもののあはれにわりなきを尋ぬるに、稲妻陽炎(かげろう)、水の上に降る雪、それよりなほ徒(あだ)なるは、女の心なりけるや。

かやは景久にうとまれて、忠信を逆恨みした。そこでその夜、何も知らない忠信にしつこく酒をすすめて酩酊させると、そのすきに六波羅(ろくはら)へ行き、北条義時に密告した。ただちに家を包囲する北条軍。忠信は間一髪で下女に揺り起こされ、座敷の天井板を破って外へ出た。そして屋根伝いに、かつて義経が住んでいた六条堀川の館へ行くが、そこはすっかり荒れはててしまっていた。翌朝、北条の大軍が館に押しよせてきた。忠信は死闘の限りをつくすが、深手を負い、もはやこれまでと覚悟。縁の上に駆けあがって敵勢の見守るなか腹を切り、刀の切っ先を口にくわえて、がばっとうつ伏せに倒れた。刀は頭を刺し貫いた。

このように、まさに忠信も、主君義経とならぶ悲劇のヒーローといえるだろう。勇敢でひたむき、忠義に厚い。無慈悲にも愛人に裏切られ、勝ちめのない戦で追いつめられながらも恨み言を口にせず、最期はみごとに自害して果てる。そんな忠信を、人々は後世までほめたたえた。ちなみに、かやは鎌倉へくだり頼朝に恩賞を乞うたが、逆に世間を騒がせたとして死罪に処せられたといわれている。

奇妙なことに『義経記』には、碁盤どころか囲碁そのものにかんする記述がいっさい見当たらない。また、源平合戦を扱ったほかの伝説や書物のなかに、忠信が碁盤を持って戦った話が出てくるのかどうかも、いまだにはっきりしていない。近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)が元禄14年(1701)に浄瑠璃「吉野忠信」を書いているが、ここにもそのような場面はない。しかし、正徳5年(1715)初演の「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」で、近松は〈碁盤忠信〉にふれている。「国性爺合戦」は日本と中国を舞台にした時代物浄瑠璃で、3年ごし17か月の大当たりをとった、近松の代表作のひとつである。注目の場面は、図版1−4で描かれた〈碁立(ごたて)軍法〉の少しあとの部分にあたり、忠信が碁盤で戦う話が、このころすでに世間によく知られていたことを示している。

明朝の復興に力をつくす将軍・呉三桂(ごさんけい)は、九仙山(きゅうせんざん)で碁を打っているふたりの老翁に出会う。老翁らは呉三桂に碁立軍法を説き、仙術で国性爺(物語の主人公)が戦う様子を見せたのち、それぞれ「先祖高(こう)皇帝」「青田劉伯温(せいでんりゅうはくうん)」と名乗って、碁盤を残したまま姿を消す。
 そこへ現れたのは、国性爺の父・老一官(ろういっかん)ら。ともに明朝の遺臣である呉三桂と老一官は再会を喜びあうが、敵方の梅勒王(ばいろくおう:貝勒王とも書く)と、その軍勢が迫ってくる。呉三桂が高皇帝と青田劉伯温の名を呼んで祈ると、谷に雲の橋がかかった。呉三桂らは橋を渡りきるが、敵が中ほどまできたとき、風が吹いて橋が切れ、全員谷底へ落ちてしまう。梅勒王だけが生きて這いのぼってきたところで、呉三桂がさきほどの碁盤をひっさげて叫ぶ。
「コリャこの碁盤はナ、野老(ところ:山芋の一種)の根で練ってあるから石よりかたい。苦くて口には合うまいが、一口くらわせてやろうか、きさまは死に目でなおも無益な碁の相手、それほど相手になりたければ、イデこの碁勢を受けてみろ!」
 そして梅勒王の頭や顔をさんざん打ちすえたので、梅勒王はついに脳天を割られて息絶えた。ここで老一官が叫ぶ。
「オオ本望じゃ、本望じゃ。日本国でもこのような例は、吉野の碁盤忠信、あれは榧の木、これは野老の木、場所も名に負う九仙山……」

(『新装版日本古典文庫18 近松名作集』飯沢匡訳 1988年 河出書房新社刊より要約)

こうしたことを考えあわせてみると、忠信と碁盤のエピソードは、「碁盤忠信」という題名でもっとも古く記録に残る延宝4年(1676)の古浄瑠璃か、あるいは同8年(1680)の金平(きんぴら)浄瑠璃に挿入されていたのではないだろうか。これらが好評だったらしいことは、似たような題名の浄瑠璃や歌舞伎が、のちにぞくぞくと作られたことからも察せられる。歌舞伎の主なものとしては、元禄11年(1698)に江戸中村座で初演され、初世市川団十郎が忠信を演じた「吉野静(よしのしずか)碁盤忠信」、享保10年(1725)に二世団十郎が演じた「碁盤忠信」、同13年(1728)の同じく二世団十郎「兜(ほしかぶと)碁盤忠信」、明治18年(1885)初演で初世市川左団次が演じた、河竹黙阿弥(かわたけ・もくあみ)作「千歳曾我源氏礎(せんざいそがげんじのいしずえ)」通称「碁盤忠信」、明治44年(1911)に七世松本幸四郎の襲名披露として元禄歌舞伎ふうに書かれた「碁盤忠信」などがある。

これらの作品中、忠信が碁盤で戦う場面には別のバージョンもある。かやが密告するために家を出たとき、忠信は風呂に入っており、おもての騒ぎを聞きつけるといそいで着物をひっかけて帯をしめた。だが、刀はかやがどこかに隠してしまっている。とっさに手近にあったものを振り回して敵を追い散らしたところ、たまたまそれが碁盤だったというわけだ。初期の浮世絵には、どの場面に取材したのか判然としないものもある。京都での女の裏切り、酒、風呂という取りあわせは、いかにも物語を盛りあげるための潤色という感じがする。

享保14年(1729)に出版された役者評判記『役者登志男(やくしゃとしだん)』には、前年に上演された「兜碁盤忠信」の見せ場が紹介されている。

梶原(景時の嫡男・景季(かげすえ))と越中の前司(前任の国司)が碁を打っていることを障子ごしに聞いて知った忠信は、縁の下に隠れ、見つかると飛びだしてきて、碁盤を持って擬勢をはる。そのとき場内は万雷の拍手とかけ声に包まれたという。亡き父の芸を継いで忠信にふんした二世団十郎を、同書は『今此人につゞくつはものはない』と評した。

時代が明治にくだってからの「千歳曾我源氏礎」や「碁盤忠信」では、愛人の裏切りからクライマックスまでの展開が改められている。愛人は名前が〈かや〉ではなく〈小車(おぐるま)〉で、忠信を裏切りはしない(当時の日本人は海のむこうのイギリスにならい、ビクトリア時代特有のかたい道徳心と従順さを女性に求めていたのだろう)。かわりに悪役となるのは、小車の父・小柴入道(こしばのにゅうどう)だ。明治44年の「碁盤忠信」では、忠信はある夜、義経から賜った宝刀を主君のつもりで拝したあと、碁盤を枕にうたたねをする。そこへ小柴入道が、寝首をかこうと忍びよる。すると小車の霊が現れて忠信を起こし、忠信は碁盤で入道の刃を防ぐ。

忠信の浮世絵には、主にふたつのタイプがある。早くから描かれていたのは、鎖帷子を着て刀(数は定まっていない)をさしている姿で、おそらく吉野の戦いの場面と思われる。なぜかというと、文化8−12年(1811−15)に出版された『花江都歌舞妓年代記(はなのえどかぶきねんだいき)』のうち巻之三に、同じ扮装の小さな墨摺絵が2点載っているからだ。1点は元禄11年(1698)「吉野静碁盤忠信」の、忠信が衆徒の頭目・横川覚範(よかわ・かくはん)を碁盤で押さえつけている図。もう1点は享保10年(1725)「碁盤忠信」より、碁盤を持って見えを切っている図だ。

江戸後期に見られるようになったもうひとつのタイプは、愛人の家の場面。こちらの忠信はひとえの着物に裸足という恰好で、風呂からいそいで出てきたことをうかがわせる。

ほかに、歌舞伎のだんまりの場面を描いた浮世絵もある。だんまりとは、登場人物が暗闇のなかを無言のままゆっくりした動作でさぐりあう、舞踊的な演出のこと。忠信のだんまりは市川家の得意芸で、動きや静止したときのポーズ、衣裳、化粧などの型が江戸中期までにほぼ完成し、その後ほとんど変化することなく代々継承されている。

江戸の庶民はみな芝居好きで、役者の型をくらべたり、有名なせりふをそらんじたり、しぐさをまねたりして、おおいに楽しんでいた。それだけに自分たちがよく知っている忠信の芝居絵は喜んでも、定型からはずれた絵は好まなかった。さまざまな年代にさまざまな浮世絵師が忠信を描いたにもかかわらず、どれもよく似ているのは、そういう理由によるのである。