金閣寺
8.金閣寺

「祇園祭礼信仰記(ぎおんさいれいしんこうき)」は、中邑阿契(なかむら・あけい)、浅田一鳥(あさだ・いっちょう)ら5名の合作による人形浄瑠璃。織田信長の一代記に取材した時代物で、はじめは「祇園祭礼信長記(しんちょうき)」という題名だったものが、のちに「〜信仰記」と改められた。これは信長をはばかってのこととされるが、真偽のほどは明らかでない。宝暦7年(1757)に大坂で初演されて好評を博し、翌年には京都と江戸で歌舞伎化。とくに4段目の「北山金閣寺の場」通称「金閣寺」は、豪華な金閣寺の屋台をセリで上下させるダイナミックな演出などで人気が高く、今日もなお単独で上演され続けている。さらにこの段は、囲碁の対局場面が2回も出てくるとあって、囲碁ファンには楽しさも格別だ。

松永大膳(だいぜん)は主君である室町幕府第十三代将軍足利義輝を酒色にふけらせたうえ、遊女をそそのかして義輝を射殺させる。そして、さらなる陰謀をめぐらし、金閣寺に居を構えて義輝の老母・慶寿院を楼上に幽閉する――と、ここまでが前段。

4段目の第2場で舞台は金閣寺に移る。大膳が弟と碁を囲みながら計略を聞かせているところへ、此下東吉(このした・とうきち)という若者が、大膳の家臣の口ききで奉公を願い出てくる。じつは東吉は小田春永(おだ・はるなが)の家臣で、本当の名を真柴筑前守久吉(ましば・ちくぜんのかみ・ひさよし)といい、ひそかに慶寿院を救いにきたのだ。大膳が東吉に囲碁の相手を命じ、ふたりは打ち始める。ここは囲碁用語が巧みに織りこまれたせりふを交わしつつ、たがいの腹のうちをさぐりあうおもしろい場面である。

しかし対局が進んでいくあいだに、話は複雑な展開を見せ始める。大事な人質である慶寿院が天井の一枚板に墨絵の竜を描かせることを望んだため、金閣寺には絵師・狩野雪村(かの・せっそん)の娘・雪姫と、雪姫の夫もとらわれていたのだ。雪姫はかねてより自分に横恋慕していた大膳から、夫を自由にしてほしければ、竜を描くか閨(ねや)の伽の相手をするかと迫られていた。

囲碁の勝負は東吉が勝つ。大膳は東吉の才智をためそうと、庭の井戸に碁笥(ごけ)を投げこみ、「手をぬらさずに取ってみよ」と難題を出した。だが、東吉はとっさに妙案を思いつく。庭の滝から樋をわたして水を井戸へそそぎ入れ、碁笥が浮かびあがってきたところへ扇を差し入れた。そして裏返した碁盤の上に碁笥をのせ、春永の首実検にたとえて差しだしたので、大膳は東吉をすっかり気に入り、軍師として召しかかえる。

雪姫は大膳が亡き父の仇と知って切りつけるが、逆に桜の木にしばりつけられてしまう。そこで、つま先で桜の花びらを集めてネズミの絵を描くと、ネズミが動きだして縄を食いちぎるのだが、この演技の難しさから、雪姫は歌舞伎における三姫のひとつにかぞえられている。その後、東吉の活躍により、慶寿院、雪姫、雪姫の夫が救いだされ、「金閣寺」は幕をおろすのである。

「金閣寺」に登場する此下東吉、小田春永、松永大膳は、それぞれ豊臣秀吉(羽柴(はしば)筑前守秀吉、初名は木下藤吉郎(きのした・とうきちろう))、織田信長、松永秀久(1510−77)がモデルになっている。ここでおもしろいのは、いかに名を変えていようと、江戸の人々はすべて承知のうえで芝居を楽しんでいたということだ。秀吉の囲碁好きも広く知られていたため、作者らは囲碁を劇中で効果的に使おうと考えついたのだろう。

秀吉の囲碁の師は、日本一の名手とうたわれていた日蓮宗の僧・日海(にっかい)だ。信長と秀吉は日海に師事し、ともに5子(し)を置いたと伝えられる。日海は信長より名人の称号を与えられ、のちに本因坊算砂(ほんいんぼう・さんさ)と改名。慶長17年(1612)には江戸幕府の囲碁奨励策の一環として、徳川家康より扶持を与えられた。算砂が始祖となった本因坊家は長く継承されたが、昭和13年(1938)に二十一世秀哉(しゅうさい)名人が引退碁を打ったときをもって終焉を迎えた。現在、名人と本因坊は、どちらもプロ棋士による選手権の優勝者に与えられる称号となっている。