仙人」という漢字は、「人」と「山」を組みあわせて作られている。仙人とは、その字の通り山中に住む不老不死の知恵者で、神通力をもち、天界と下界を自在に行き来できるといわれる。
日本でも中国でも、山はかつて神秘が宿る場所とされていた。そして、俗界を離れて山頂で何年も修行をつんだ者は、超自然的な力によって霊知をさずかり、仙人になれると信じられていた。人々に畏敬の念をいだかせる、このような人間のルーツは、おそらく古代中国の巫女(みこ)や予言者だろう。超自然的存在と交流して予言、神託、卜占(ぼくせん) などを行う巫女や予言者は、老荘学の起こりと囲碁の発展に密接にかかわっていた。
唐代中期の文人・柳宗元(りゅうそうげん)が819年ごろ著したとされる「柳州山水近治可游者記」には、碁盤もまた神秘的なものだとみなされていたことを示す一節があり、興味深い。これは華南地方の柳州の近くにある石山を描写したもので、柳州一帯は奇岩奇峰の林立する風光明媚な地である。
潯江(じんこう)の瀬より北へ支流をくだり、また西へ行ったところに、〈仙エキの山(エキは囲碁のこと)〉とよばれる山がある。山は西側から登ることができ、頂上に洞穴がある。洞穴には、屏風、室、ひさしがあり、ひさしの下にはさまざまな形の流石がある。……上室を通って山の北側へ出ると、眼下に大野をのぞみ、飛ぶ鳥の背を見ることになる。はじめてそこへ登ってきた者が、黒い表面に18本の赤い筋がついている石を手に入れた。それを盤にして碁が打てたため、山は〈仙エキの山〉といわれるようになったのである。
仙人に偶然出会った人の話は、数多く伝承されている。そのなかでも「爛柯(らんか)」とよばれる中国の説話は、日本人の心の琴線にふれたようだ。
晋の時代に、王質(おうしつ)という若くたくましい木こりがいた。ある日、斧をかついで石室山へ入ったが、いつもより奥まで行って道に迷ってしまう。しばらくさまよい歩くうち、ふたりの不思議な老人に出会った。老人たちは岩の上に碁盤を置いて碁を打っている。王質は斧をおろし、夢中になって対局を眺めた。老人がくれた棗(なつめ)のようなものを噛んでいると、空腹も喉のかわきも感じなかった。やがて、1、2時間が過ぎたかと思われたころ、ふと気づくと老人たちの姿は見えなくなっていた。いつのまにかひげが長く伸び、斧の柯(え)は爛(ただ)れている。里へ帰っても家族はすでに亡くなり、王質の名を覚えている者すらひとりもいなかったということだ。

この説話をもとにした紀友則(きの・とものり)の和歌が、『古今和歌集』に収められている。友則は筑紫に赴任中、ある友人のもとへ始終出かけては碁を打っていた。これは京都へ帰任後にその友をなつかしんで詠んだ歌で、昌泰3年(900)ごろの作と思われる。
さらにそれから800年ほどのちには、近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)が浄瑠璃「国性爺合戦(こくせんやかっせん)」」に爛柯伝説を取り入れ、名場面を創りだした(図版1‐4)。
囲碁は日本画にも描かれている。安土桃山時代から江戸時代にかけて全盛をきわめた狩野(かのう)派は、中国的な画題を得意とし、2、3人の老人が平らでなめらかな岩を盤のかわりにして碁に興じている場面もよく取りあげた。これらの老人は必ずしも仙人というわけではなく、学者や文人の手なぐさみにすぎない絵もある。それでも、囲碁が古来、世俗とは無縁だということを改めて示すかのように、背景には山の頂や人里離れた竹林が使われていた。
江戸時代には、神仏はしばしば親しみをこめて芸術作品に取り入れられた。もっとも人気が高かったのは、アジア各地より伝来し、日本で福徳の神となった〈七福神〉だ(図版2‐6)。 版画や絵画では、全員で、グループで、あるいは個々でとさまざまな描き方をされ、碁を打つふたりをもうひとりが眺めている図もときどき見られる。たいていの場合、この3神は繁栄と長寿の神・大黒、福禄寿、恵比寿で、それぞれインド(仏教)、中国(道教)、日本(神道)を起源とする。七福神のなかでもとくにこのグループは、「三酸図(さんさんず)」として知られる画題の三聖に似ているようだ。こちらは孔子、老子、釈迦または菩薩が大がめを囲んで桃花酸をなめている図で、たとえ信者の求めによって教義の性質が異なっていようと、真理の本質は同じだということを意味している。
日本に定着した大黒、福禄寿、恵比寿は、まぎれもなく仙人の部類に属する。そしていつも楽しそうに描かれているところをみると、みな囲碁が好きなのだろう(図版1−6)。こうした図には、囲碁はだれにとっても魅力的なものだ、という思いがこめられているのかもしれない――酒が世界中で愛されているように。
禅宗の開祖・達磨(だるま)にも、囲碁にまつわる逸話がある。達磨が天竺を行脚中、ある寺でふたりの老僧に出会った。ふたりは長い年月、碁を打つ以外に何もしなかったので、ほかの僧たちから軽蔑されていた。ところが達磨が見ていると、老僧たちの姿は、碁を打ちながら消えたり現れたりしているではないか。きっと悟りの境地に達しているにちがいない。対局のあとでふたりは、なぜこれほどまで囲碁に没入するのかを達磨に語った。
黒の勝つときは自分の煩悩が勝ったと悲しみ、白の勝つときは悟りの心が勝ったと喜ぶ。打つに従って、煩悩の黒がだんだん失われ、菩提(ぼだい)の白の勝つことを願う。この功徳(くどく)によって証果(しょうか)の身となったのです。
(『日本古典文学全集28 宇治拾遺物語』小林智明校注・訳 1987年 小学館)
このおもしろい話は、中国で668年ごろ編纂された『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』に、その原型が見える。老僧の言葉は、日本曹洞宗の開祖・道元(どうげん 1200−53)の言葉とあわせて考えるとよくわかる。
(宏智(わんし)禅師が、ある問答を囲碁にたとえて解釈した。それを道元が解説して)碁を打つということはないわけではないが、いったい、ふたりで打つというのはどういうことであるか。もしもふたりで碁を打つというなれば、それはどうやら、へぼ碁らしい。もしもへぼ碁であるならば、それはなお碁を打つとはいいがたい。……もしいうならば、こういう具合にいうべきところであろう――囲碁はひとりで打つものであって、そのひとり、つまり自分のなかで敵手にめぐり逢うものである――と。
(『現代語訳正法眼蔵 第6巻』増谷文雄 1988年 角川書店)
この言葉から、囲碁が僧と武将に重んじられていた理由がわかるだろう。対局相手は敵ではない。むしろ自己を捨て去り、対局の過程をともに見守る仲間なのだ。まるでふたりの医師が、難しい手術の経過を観察するように。