児雷也

9.児雷也

 大蝦蟇(がま)に乗って妖術をあやつり、神出鬼没の活躍をする義賊・児雷也(じらいや)――日本人にはなつかしいヒーローだが、もともとは中国生まれだったということは、意外と知られていないようだ。宋代(960−1279)の沈俶(しんしゅく)撰の説話集『諧史(かいし)』に、盗みに入った家の壁に「我来也(われきたるなり)」と必ず書き残していく盗賊の話がある。文化3−4年(1806−07)、感和亭鬼武(かんわてい・おにたけ)がこれを日本の話に翻案して、読本(よみほん)『自来也説話(じらいやものがたり)』を書いた。この読本をさらに脚色し、現在の児雷也のイメージを形づくったのが、合巻(ごうかん)『児雷也豪傑譚(じらいやごうけつものがたり)』だ。

 『児雷也豪傑譚』は天保10年(1839)から明治元年(1868)まで、じつに30年近い歳月をかけて、43編が出版された。美図垣笑顔(みずがき・えがお)、一筆庵(いっぴつあん)主人(浮世絵師・溪斎英泉)、柳下亭種員(りゅうかてい・たねかず)、柳水亭種清(りゅうすいてい・たねきよ)と書き継がれ、筆をとった絵師は歌川国貞をはじめとして7人にのぼる。主人公・児雷也の容貌を『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』の貴公子・光氏(みつうじ:「5.光源氏」参照)に似せたことや、胸のすくような勧善懲悪ぶり、そして何より荒唐無稽な展開によって読者を魅了した。

 合巻のあらすじは以下のようなものだ。肥後の豪族の遺児・尾形周馬弘行(おがた・しゅうまひろゆき)は、家臣に助けられ、信濃で養育される。雷獣(らいじゅう:落雷とともに地上に落ち、樹木を裂き人畜を害するといわれる想像上の怪物)を生けどりにして武勇をあらわし、7年後、義賊団の首領・児雷也として登場。越後妙高山の仙素道人(せんそどうじん)から蝦蟇の妖術をさずかり、諸国で悪人をこらしめる。その後、鎌倉の管領(かんれい)家に功を立てたことにより、『これまでの罪を宥(なだ)め、尾形家を再興さす』との宥書(ゆるしぶみ)を受けて、家名再興と逆賊誅滅の決意をかためる。ところが、越後の青柳(あおやぎ)池の大蛇(おろち)から生まれた妖賊・大蛇丸(おろちまる)が、執念深く児雷也を襲う。児雷也は越中立山の仙人から蛞蝓(なめくじ)の妙術を得た美女・綱手(つなで)を妻とし、蝦蟇、大蛇、蛞蝓の三すくみの妖術乱闘をくり広げるが、綱手とともに大蛇の毒薬をあびて倒れる。しかし、幼少のとき児雷也に命を救われた若者が、天竺へ飛行して解毒の栴檀香樹(せんだんこうじゅ)を持ち帰り、ふたりを蘇生させる。物語は未完のまま、ここで終わっている。

 蝦蟇、蛇、蛞蝓、鳥、蜘蛛――これらは昔、日本の妖術使いが行っていたとされる妖術の代表的なものだ。本来なら、たがいに相性が悪いはずだが、この物語のなかでは蝦蟇と蛞蝓が仲むつまじい夫婦になっている。

 嘉永5年(1852)7月、河竹黙阿弥(かわたけ・もくあみ)作の歌舞伎狂言「児雷也豪傑譚話(ものがたり)」が江戸河原崎座で上演された。これは合巻のはじめの10編からいくつかの場面を抜粋して脚色したもので、変化に富んだ展開に加え、合巻から取り入れられた大道具や数々のしかけが観客に喜ばれ、大喝采をあびた。主演は前年の「源氏模様娘雛形(げんじもようふりそでひながた)」で光氏を演じて好評を博した、八世市川団十郎。この児雷也役も大当たりをとり、多くの芝居絵が刊行された。

 その第2幕第1場には、囲碁が登場する。児雷也は更科都守之助(さらしな・つもりのかみ)と名を変えて、新潟の熊手屋という揚屋(あげや)に逗留している。傾城(けいせい)あやめ太夫と浜辺で雪見としゃれこみ碁を打ったが、なかなか勝負がつかなかったので、太鼓持ちの背中に碁盤をくくりつけて打ちながら帰ってくる。よつんばいで歩き続けて腰が痛いとこぼす太鼓持ちに、児雷也はいう。「晋の寸質は仙人が碁を打つのを眺めているうち、斧の柄が朽ちたとある。それほどまでに気を長くせねば、碁はおもしろからぬもの」

 団十郎は2年後の安政元年(1854)、「児雷也豪傑譚話」大坂公演初日の前夜に、宿の一室にて短刀でのどをかき切り、謎の自殺をとげた。享年32歳。今をときめく二枚目スターの死という衝撃的な話題が加わって、作品の評判はさらに高まり、その後もくり返し上演された。続編も作られ、翌安政2年(1855)5月には、同じ河原崎座で黙阿弥作の「児雷也後編譚話(ごにちものがたり)」が上演されている。