4.吉備大臣と唐の宮廷
 

囲碁は5世紀か遅くとも6世紀には、朝鮮をへて日本に伝わったといわれている。伝えたのは仏僧や、中国で学問を修めた学者あるいは官吏といった人々のようだ。当時の日本は大陸文化の吸収に熱心で、こうした渡来人を喜んで迎え入れていた。

 日本の囲碁についてふれている現存最古の文献は、中国の正史『隋書(ずいしょ)』の「倭国伝(わこくでん)」だ。隋王朝は589年に天下を統一したが短命に終わり、618年に滅亡した。その間、大和朝廷は隋の都・大興(長安)へ使節を送り、推古15年(607)には小野妹子(おのの・いもこ)らを遣わしている。隋朝廷は海のむこうの倭(日本)という国について、使節一行からくわしく話を聞いたようだ。「倭国伝」には次のような記述があり、その内容はほぼ正確であると考えられている。

(倭には)楽に五絃の琴・笛がある……百済(くだら)において仏経を求得し、はじめて文字があるようになった……正月一日になるごとに、かならず射戯・飲酒する……棊博(きはく:囲碁)・握槊(あくさく:すごろく)・ちょぼ(ばくち)の戯が好きである。

8世紀のはじめ、奈良時代初期には、囲碁は日本の僧侶と尼僧に余暇の娯楽として親しまれていた。勅撰史書『続日本紀(しょくにほんぎ)』によると、天平10年(738)7月10日、左兵庫少属(さひょうごのしょうさかん)・従八位下の大伴宿禰子虫(おおとものすくね・こむし)が右兵庫頭(うひょうごのかみ)・外従五位下の中臣宮処連東人(なかとみのみやこのむらじ・あずまひと)と碁を打っていたとき、東人を刀で斬り殺す事件が起きている。つまりこのころには、貴族階級まではいかなくとも、いわゆる中流階級には囲碁が広まっていたということだ。

しかし古くからの通説はこうした事実と異なり、吉備大臣(きびだいじん)こと吉備真備(きびの・まきび)が唐から持ち帰ったのが始まりだとされている。次の文は江戸前期の俳人で仮名草子作者でもある山岡元隣(やまおか・げんりん)が、寛文11年(1671)に著した俳諧書『宝蔵(たからぐら)』の一節で、当時この通説が信じられていたことをよくあらわしている。

手談(しゅだん:囲碁の別称)のわざはからくにゝ始りしを。大臣のきびよく傳(つた)へとり給ひてより。此くにゝおほくひろごりて。諸人(もろひと)これをもてあそべり。

吉備はまた、刺繍、琵琶、〈暦道の奥義〉を日本にもたらしたという伝説の持ち主でもある。だが、伝説を生んだ真実の物語も、それに負けず劣らず興味深い。

 吉備真備は持統9年(695)に備中の豪族の家に生まれ、功なり名をとげて、宝亀6年(775)に没した。平城京にあった官吏養成のための大学を卒業後、霊亀2年(716)に「唐で学問を修め、成果をもって帰朝せよ」との朝命を受けて上流階級の若きエリートたちとともに留学生に選ばれ、翌年、唐の都・長安へと船出した。そのとき、吉備は23歳。留学生の友人のなかには、のちにかの地で客死し、望郷の和歌が百人一首に収められることになる阿倍仲麻呂(あべの・なかまろ)の姿もあった。

 当時の長安といえば、東洋一壮麗な国際都市にして盛唐文化の発信地でもあった。吉備はそこで17年間を過ごす。外国使節の接待や朝貢をつかさどる鴻臚寺(こうろじ)で諸学を学んでいたが、宮廷にもたびたび召しだされていたようだ。日本へ帰国してからは大学助(だいがくのすけ:次官)となり、学生に講義を行うかたわら、教科の整備充実につとめた。さらに東宮学士(とうぐうがくし)に任ぜられて阿倍(あへ)内親王(聖武天皇の皇女で、のちの孝謙・称徳天皇)に『漢書(かんじょ)』と『礼記(らいき)』を教授し、天平勝宝4年(752)には遣唐副使としてふたたび唐の土を踏んでいる。その後、称徳天皇のひきたてによって造東大寺司(ぞうとうだいじし)長官となり、ついに天平神護2年(766)に、太政大臣、左大臣に次ぐ重職である右大臣までのぼりつめた。

 留学時代の吉備は数々の逸話で彩られている。いつごろから広まったのかさだかではないが、文字として残っている最古のものは、11−12世紀中の作とされる絵巻物「吉備大臣入唐絵詞(きびだいじんにっとうえことば)」だ。逸話はのちに歌舞伎に脚色され、それが浮世絵にも描かれて人気をよんだ。

 そのひとつにこんな話がある。あるとき、玄宗皇帝は吉備の才知をためそうと宮廷によび、「大臣の玄東と碁の勝負をせよ」と命じた。すると吉備は囲碁のルールさえ知らなかったにもかかわらずこれを受け、「わたくしが負ければ命を差しだしますかわりに、勝ったときには暦道の奥義をおさずけください」と願い出たのである。そして阿倍仲麻呂の霊に助けられ、1目(もく)勝ちを目前にした。ところがそのとき、そばに立って対局を見守っていた玄東の妻・隆昌が、夫に恥をかかせたくないばかりに、石をひとつこっそり飲みこんでしまった。

 中国のルールでは対局後に地(じ)の数ではなく、石の数をかぞえる。このときも、かぞえてみるとひとつたりなかったので、玄宗は不思議な力をもつ鏡で石をさがした。そして隆昌が飲みこんだことを知ると激怒し、いったんは死刑を命じたが、吉備の命乞いを聞き入れて許してやった。吉備の寛大さに心をうたれた隆昌は、その後、廷臣たちが吉備をねたんで暗殺をくわだてていることを知り、手引きして日本へ逃がしたという。

 これにはさらに後日談のついた説もある。どのようにしてか吉備はなくなった石を取りもどし、絹の布に包んで翡翠の箱に入れ、帰国後に妻に贈った。ところが妻はちゃっかりと箱だけを残して、石は仲の悪い隣家の井戸に投げこんだということだ。

 この伝奇的な物語には、注目すべき点がふたつある。ひとつは囲碁と暦との関連性で、中国の古い伝説には、囲碁と天体の運行とをからめた話が多く見られる。もうひとつは、吉備と玄東が賭け碁をしている点。賭け碁は中国だけでなく日本でも、江戸時代のはじめに幕府が碁所(ごどころ)を創設して厳格な作法を広めるまで、ごく普通に行われていた。このように天文学ならびに賭け事と伝統的に結びついているのは、囲碁が有史以前に易の道具として発生し、しだいに発展してきたことを物語っているのではないだろうか。

 民間伝承とは、事実をいくぶん歪曲してしまうものかもしれない。けれども吉備の伝説には、歴史的事実に裏づけされた話が多い。たとえば、中国で鏡は呪力をそなえた神秘的なものと考えられ、とくに道教の修行や儀礼において欠かせない道具だった。玄宗皇帝が道教を信奉し、術をきわめた道士をしばしば宮廷に招いてもてなしたことは、よく知られている。また、宮中では囲碁が盛んに行われ、玄宗みずから好んで打っていたという。その様子を伝えてくれるおもしろいエピソードが、晩唐に段成式(だんせいしき)が著した異聞雑記集『酉陽雑俎(ゆうようざっそ)』に収められている。

帝が、ある夏の日、親王と碁を打たれたときのことである。賀懐智に、琵琶の独奏をさせられた。貴妃(玄宗の愛妾・楊貴妃)は、局前に立って観戦をしていた。帝が碁石をかぞえて負けそうになると、貴妃は康国(こうこく:現在のウズベキスタン共和国サマルカンド)産の小犬を座席の側で放した。小犬は碁盤にあがり、盤面がめちゃめちゃになったから、帝はたいへん喜ばれた。(図版4−6)
(『酉陽雑俎 第1巻』今村与志雄訳注 1980年 平凡社)

  囲碁と暦との関係にもどると、中国史上もっとも偉大な天文学者のひとりといわれる仏僧・一行(いちぎょう)も、吉備と同時期に長安に来ていた。吉備が入唐して12年目の729年に唐帝国全土に施行された大衍暦(たいえんれき)を作ったのは、ほかならぬこの一行だ。大衍暦は日本にも伝わり、天平宝字7年(763)から90年あまり国の暦に採用されている。この改暦に吉備がかかわっていたと考えても、不自然ではないだろう。

 一行はすぐれた数学者にして囲碁の達人でもあったようで、「囲碁の手数(てかず)の総数はいくつか」という有名な命題に最初に答を出したといわれている。当時もっとも有効な手段とされていた算木(さんぎ)と行列式を用い、25目に対して847,288,609,443通りの組みあわせが可能なので、碁盤全体の361目では概算で10の208乗になると算出した。

  吉備が日本に琵琶と刺繍を伝えたという説について考えれば、「吉備大臣入唐絵詞」には吉備が留学を終えて帰国したときの様子が描かれている。それによると、船には朝廷への献上品が山と積まれていたようだ。仏教の経典や中国の古典などの巻物、絵画、薬、易の道具、さまざまな工芸品……。そこにきっと、楽器と上質の織物も含まれていたと思われる。さらに頭のなかには唐で学んだ学問がぎっしりつまっていたのだから、吉備は出発前に拝した朝命をりっぱに果たしたことになろう。奈良の正倉院には、聖武天皇の遺愛品で唐製または百済製と考えられている碁盤〈木画紫檀棊局(もくがしたんのききょく)〉が保存されており、やはり吉備が持ち帰ったのではないかと想像したくなる。

 下の写真は、正倉院所蔵の〈木画紫檀棊局〉と碁石。華奢なつくりの碁盤には花形の星が17個象嵌(ぞうがん)されており、繊細にほどこされた彫刻と美しい曲線を描く脚が、中国の宮廷の調度品を思わせる。碁石は左の2列が〈撥鏤棊子(ばちるのきし)〉とよばれ、象牙を紅色と紺色に染めて花喰鳥(はなくいどり)を手彫りしてある。その右の黒石は蛇紋石(じゃもんせき)、白石は石英(せきえい)

 奈良時代、皇室と貴族は中国文化に果てしない憧れをいだいており、長安で人気があると聞けば、なんでももてはやしていた。なにしろ当時のアジアにおいて唐の宮廷といえば、現代のベルサイユ宮殿、バチカン宮殿、ボンドストリート、パークアべニューを全部あわせたほど大きな存在だったからだ。このころ囲碁は知られていたものの、あくまで僧侶、兵士、下級官人らの遊びにすぎず、本来ならばそうした俗世間の遊戯が、世離れた上流階級にまで広まるはずはなかった。ところが、唐の宮廷で盛んだということが伝えられると、囲碁の株は急上昇したのである。

 囲碁に対する貴族たちの認識を一変させたのは、だれなのだろうか。筆者はその人物こそ、吉備だったのではないかと思う。17年間の留学中、哲学、歴史、詩、音楽など幅広く古典を学んだ吉備は、中国の知識人と同じように囲碁とその伝統を重んじていたにちがいない。もちろん、そのような留学生はひとりだけではなかったろう。しかし、吉備は上流階級の家に生まれ、中央で活躍した。諸学に通じ、大学助から右大臣へと要職を歴任し、皇室の覚えもめでたかった。これほど重みのある人物でなければ、貴族たちを納得させることは難しかっただろう。

 伝説が伝えられてきた意義は、きっとここにあるのだ。「かの吉備公が唐から持ち帰り、宮廷と貴族社会に広めた技芸」という伝承によって、囲碁は不滅の威光を与えられ、愛好者の層を広げ始める。吉備大臣が舞台から去ったのち、宮廷の記録に、回想録に、文学作品にと、囲碁についての記述はふえていくのである。

〈解説:「碁」の字音について〉

 日本語では漢字の「碁」に、「ゴ」と「キ」2通りの読みがある。これは中国で5世紀から7世紀にかけて、標準とされる発音が大きく変化したためだ。「ゴ」は300年ごろから550年ごろまで中国南方で使われていた〈呉音(ごおん)〉であり、「碁」の文字がおびただしい数の外来語のひとつとして大陸から日本に流入してきたときの字音と思われる。712年に編纂された『古事記』をひもとくと、地名の「ゴ」の音に「碁」の文字があてられている。しかし吉備が留学したころの長安では、当地の〈漢音(かんおん)〉が標準とされ、「ゴ」は野暮で古くさく、漢音の「キ」が当世ふうであると考えられていた。ただし発音は変わっても、文字そのものは変化しなかった。

天平7年(735)に吉備が帰国したとき、袁晋卿(えんしんけい)という若い唐人が遣唐使に従って来日した。袁晋卿は大学音博士となり呉音の乱れを正すとともに漢音を教授し、のちに朝廷から清村宿禰(きよむらのすくね)の姓を賜って、大学頭(だいがくのかみ)にまでなった。朝廷の奨励により、貴族や学者は漢音を熱心に修得して古典漢籍を読んだが、仏家や庶民のあいだでは呉音が使われ続け、現在も主として仏教用語に多く残っている。

 こうしたことから「キ」は「ゴ」に比べて、どことなく格調高い響きをもつようになった。今日、囲碁・将棋の道を意味する〈棋道(きどう)〉や、それらを職業とする人をさす〈棋士(きし)〉といったかたい表現に「キ」の音をあてるのに対し、囲碁にかんする一般的な言葉の音は「ゴ」のままであるのも、そのあらわれだろう。吉備が日本に囲碁を伝えたという俗説が定着した背景には、このような事情も影響していたのかもしれない。

〈編集者付記〉

 遣唐使の時代、囲碁は外交の道具でもあった。唐で文化人の必須教養とみなされていたため、周辺諸国は自国の名手を使節として唐へ派遣した。日本の遣唐使のなかにも、〈碁師〉という肩書きの人々がおり、延暦23年(804)に伴少勝雄(ともの・おかつお)が、承和5年(838)に伴須賀雄(ともの・すがお)が、碁が強いという理由で使節に選ばれている。また、吉備より15年早く大宝2年(702)に入唐した留学僧の弁正(べんしょう)は、碁がうまかったので、当時まだ即位前だった玄宗(李隆基(りゅうき))にたいへん気に入られたという。