生活の中の碁 目次へ戻る

図版


図版 11-1. 安倍宗任 八幡太郎義家 三河前司女馴衣(あべのむねとう はちまんたろうよしいえ みかわのぜんじむすめなれぎぬ)
歌川国芳 大判3枚続 版元・藤岡屋彦太郎 弘化(1844-48)



源義家(1039-1106)は平安後期の武将。石清水(いわしみず)八幡宮で元服したので、八幡太郎と呼ばれる。 「武略神通の人」と異名を取ったほど武勇の誉れ高く、東国に源氏勢力の基盤を作って、数多くの説話や軍記に名を残した。 しかしこの義家、囲碁と女も好きだったようだ。

本図と11‐2図は『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』に収められている「源義家或法師の妻と密会の事」 という説話を描いたもの。義家は若い頃、ある法師の妻のもとへ足しげく通い、屋敷の堀を飛び越えて縁に降り立っていた。 ある時、これに気づいた法師が縁の端に碁盤を置き、義家がつまづいたところを斬り伏せようと待ち構えていた。 ところが義家は飛びこみざまに一刀で碁盤の角を斬り落とし、なんなく女の部屋へ入ってしまった。 これを見た法師は「ただ人ではない」と恐れおののき、逃げ去ったという。

本図は歌舞伎絵の可能性もある。出版当時は天保の改革により役者絵が禁止されており、役者名を書き入れることはできなかった。
図版 11-2. 芳年武者旡類 八幡太郎義家(よしとしむしゃぶるい はちまんたろうよしいえ)
月岡芳年 大判 版元・綱島亀吉 明治16年(1883)



まさに刀を振り下ろした瞬間の義家。画面には描かれていないが、法師はさぞ震え上がっていることだろう。
図版 11-3. 工藤左衛門祐経と佐々木太郎信綱 囲碁の争い(くどうさえもんすけつねとささきたろうのぶつな いごのあらそい)
歌川国芳 大判3枚続 版元・加和長 嘉永(1848-54)



刀の柄に手をかけ、今にも斬りかかりそうなふたりの武士。ともに鎌倉幕府将軍源頼朝の重臣で、右が工藤祐経、 左が佐々木信綱。御前碁会で信綱が頼朝と対局していたところ、遅れてきた祐経は座る場所がなく、観戦していた信綱の幼い 息子の席を奪ってしまった。怒った息子が碁石の入った碁笥を祐経の顔に投げつけて怪我を負わせたが、和田義盛のとりなしで 事なきを得たという。

なお、祐経は建久4年(1193)、18年前に所領争いで殺害した河津祐泰の遺児・曾我十郎、五郎兄弟によって討たれた。 この事件は「曾我物語」として能、浄瑠璃、歌舞伎などに脚色され、現代まで根強い人気を誇っている。(図版7‐15参照)
図版 11-4. 源氏雲浮世画合 桐壺 畠山庄司重忠(げんじぐもうきよえあわせ きりつぼ はたけやましょうじしげただ)
歌川国芳 大判 版元・伊勢屋市兵衛 弘化(1844-48)



桐壺の紋付袴姿の畠山重忠(1164-1205)。重忠もまた源頼朝の重臣で、頼朝が正治1年(1199)に没すると、家督を継いだ17歳の 家頼に仕えた。「桐壺」とは『源氏物語』第1巻の巻名であり、光源氏が帝のもとで養育され、元服するまでが綴られている。 若い家頼は光源氏のように才気煥発で色好みだったという。本図では、重忠から碁の指南を受けていた家頼が、機嫌を悪くして 碁石をばらまいてしまったと見える。
図版 11-5. 大日本六十余州之内 常陸(だいにっぽんろくじゅうよしゅうのうち ひたち)
三代歌川豊国(歌川国貞) 大判 版元・上州屋金蔵 弘化1-3年(1844-1846)



説経節、浄瑠璃、歌舞伎などで親しまれている伝説上の武士、小栗判官。馬術に巧みで、乗ったまま馬を碁盤の上に立たせる 「碁盤乗り」の技を得意とした。コマ絵は豊国の門人・国政が描いており、奥の人物は小栗家の敵・足利家の三代将軍義満と思われる。
図版 11-6. 小栗判官兼氏(おぐりはんがんかねうじ)
鯉川綱信 大判 版元・出版年未詳



碁盤乗りをする小栗判官。
図版 11-7. 馬術技芸会之図
二代歌川国輝 大判3枚続 版元・辻岡屋文助 明治5年(1872)





馬術競技会を描いた作品。左端(下は拡大図)で碁盤乗りが披露されている。
図版 11-8. 太平記英勇伝 小綾川左ェ門佐高兼(たいへいきえいゆうでん こあやかわさえもんのすけたかかね)
歌川国芳 大判 版元・山本屋平吉 嘉永1-2年(1848-49)頃



南北朝時代の軍記物語『太平記』の英雄・小綾川高兼と記されてはいるが、実は安土桃山時代の武将・小早川隆景。「浮世絵に織田信長政権以後の武家を描いてはならない」という幕府の禁令に従って、名前も経歴も変えられている。 実際の隆景は天文2年(1533)に毛利元就の三男として生まれ、信長が中国地方を攻略しようとした際には、豊臣秀吉と講和を進めた。 その後、秀吉から筑前守に任ぜられ、朝鮮に出陣。五大老のひとりとなり、慶長2年(1597)に没した。本図に碁盤が描かれているのは、隆景が兵法に勝れていたことを示している。
図版 11-9. 英名二十八衆句 由留木素玄(えいめいにじゅうはちしゅうく ゆるぎもとはる)
月岡芳年 大判 版元・佐野屋富五郎 慶応3年(1867)



歌川国芳の門人・月岡芳年が兄弟子の落合芳幾と競作した、「血みどろ絵」として有名なシリーズのひとつ。丹波の若き領主・由留木素玄の話が描かれている。

文武に勝れた素玄は囲碁好きでもあった。ある時、領地内の盲目の僧侶が碁の妙手であるとの噂を聞き、城に招いて手合わせした。 ところが僧は礼を失した態度で、素玄の手を愚弄さえしたので、素玄はついに堪忍袋の緒が切れ、僧の首をはねた。 碁の用語にかけて画賛が書かれている。『いくら<劫(こう)>や<征(しちょう)>で攻めようと、 <急所>を突かれてはかなわない。石は<眼>を持っていても、目の見えない僧の負けだ』

しかしそれからというもの、僧の亡霊の首が城壁の上に現れてはすすり泣いた。「もう一局、お手合わせ願えまいか」「せめてもう一局だけでも」素玄の家臣がねんごろに弔ってやると、亡霊は二度と現れなくなった。

図版 11-10. 誠忠義士伝
歌川国芳 大判 版元・海老屋林之助 弘化4年(1847)



赤穂浪士のひとり、小野寺幸右衛門秀富(画中では藤右衛門秀留に変えられている)。今、まさに吉良邸にて討入りの最中。主君の仇・吉良上野介を探しながら、乱闘で横倒しになった碁盤に片足を乗せ、草鞋の緒を結び直している。
図版 11-11. 芝居をまねる若者
勝川春章 細判 版元・吉村 安永9年(1780)



「碁盤忠信」のクライマックスシーンをまねる、ふたりの若者。おそらく旅芝居を見たのだろう。(「7.碁盤忠信」参照)
図版 11-12. 大童山文五郎
東洲斎写楽 大判 版元・蔦屋重三郎 寛政7年(1795)



わずか8歳にして重い碁盤を片手で持ち上げ、ろうそくの火を消そうとする大童山文五郎。文五郎は幼い頃から大人の相撲大会に出場するほど大力で、末は横綱と期待された。だが、力士になったものの、平凡な成績を残しただけで引退した。
図版 11-13. 農家の正月
絵入狂歌本『男踏歌(おとことうか)』より 三代堤等琳 版元・蔦屋重三郎 寛政10年(1798)



浮世絵としては珍しく、裕福な農家を描いた図。家の中では祖父と父親が碁を打ち、母親が子どもに着物を着せている。等琳は浮世絵派の画家たちと親交があったが、静謐で写実的な画風は後々まで変わらなかった。
図版 11-14. 役者芸津くし
歌川豊国 うちわ絵 版元・伊場屋仙三郎 文化後期(1810年代)



銀杏柄の浴衣姿で碁を打つ、人気役者五代目松本幸四郎(1764‐1838)。徳亭三孝の賛は、碁の達人であった五代目をこう称えている。 『幸四郎にうっとり見惚れる観客は、爛柯説話で仙人の碁を見つめている木こりのよう(「1.仙人」参照)。もし幸四郎が自らを吉備大臣と称しても、江戸中のだれにも異論はないだろう(「4.吉備大臣」参照)
図版 11-15. 香山九老
岳亭五岳 摺物 文政6年(1823)頃



俳諧の一流派・葛飾派が作った摺物「名数十番」の九番目。碁を囲む9人の翁の画に、ふたつの俳諧歌が添えられている。

いせえびや白髪こふなる蓬莱に
老をゆづりてわかき春駒
 ――松風軒調

黒油つけて若やぐ春の日に
老うかしらの雪もきえけり
 ――松宗千枝

軒調の歌の伊勢海老は、髭があり背中が丸くても美味なことから、老人の尊称。こう(こふ)は漢字で劫と書き、 ふたつの意味をもつ。ひとつは碁の用語で、双方が相手の石を1個ずつ交互に取り合い、永久に勝負がつかなくなる状態。 もうひとつは仏教の言葉で、世界の創世から滅亡までの長い時間をいう。蓬莱とは、中国の神仙思想で説かれる三神山のひとつ、 蓬莱山(ほうらいさん)のこと。そこには不老不死の薬を持つ仙人が住むと考えられていた。

このふたつの歌には、相対するものがいくつも詠みこまれている。蓬莱(中国)と日本、冬と春、老人と若者、白と黒――つまり 、万物は天地間で互いに対立しながら依存しあうふたつの気によって形成される、という古代中国の陰陽思想がこめられて いるのだ。軒調は老人が勝負をつけるまで若者は待つといい、白が勝つことを暗示する。反対に千枝は白髪が若い頃のように黒くなる といい、黒が勝つことを暗示している。

画題の香山は洛陽郊外にある山で、唐代の名高い詩人・白居易(白楽天)が晩年に隠遁し、 8人の友をもてなした場所として知られている。「香山九老」とは、学究的な一派だった葛飾派の俳諧師たちを、敬意をこめて白居易らにたとえた ものだろう。

ところで、白居易の『白氏長慶集』には「池上二絶」という詩が収められている。

山僧対棋坐、局上竹 清。
映竹無人見、時聞下子声。

竹林でふたりの僧が碁を打っている
盤上に淡い木洩れ日
照り映える葉の陰で姿は見えない
ただ石を置く音が時折静かに響くのみ

本図はまるで、この詩を描いたような感がある。岳亭は浮世絵師であるばかりでなく、俳諧師、文学者でもあった。 とりわけ中国文学に造詣が深く、『西遊記』を邦訳した。
図版 11-16. 狂言合十二支考(きょうげんあわせじゅうにしこう)
三代歌川豊国(歌川国貞) 摺物絵暦 文政11年(1828)



江戸時代、暦は太陰太陽暦が用いられていた。1年は大の月(30日)と小の月(29日)からなり、2、3年に1度、閏月がある。 その組み合せが毎年変わるため、幕府は指定の版元に大小暦を作らせて独占販売させていた。けれども巷では、大小暦に絵を つけた絵暦を無許可で作り、新年の挨拶に配ることが習慣化していた。 明和2年(1765)、俳諧師たちの間で絵暦の出来ばえを競う交換会が流行。摺りの技術の開発に力を入れた結果、鈴木春信らが 多色摺を生み出した。

禁令品という性格から、絵暦は一見したところ暦とはわからないが、よく見るとどこかに大小月が隠されていた。本図は文政12年 (1829)用の春画絵暦で、碁盤の側面の「大二、四、六、八、九、十一、十二」という文字が大の月を表している。

文政12年は丑年。そのためか、遊郭で大夫に見惚れている大尽は、牛並みの巨大なペニスの持ち主だ。実はこの大尽のモデルは、 人気歌舞伎役者の五代目松本幸四郎。<鼻高幸四郎>という愛称で親しまれていただけに、浮世絵に描かれても、 その高い鼻と鋭い目からすぐにだれだかわかる(11‐14図にも登場している)。 うしろの衝立に描かれている人物は、幸四郎演じる「金閣寺」の松本大膳(「8.金閣寺」参照)。 その左側は、大膳が名剣倶利伽羅丸(くりからまる)を 滝に写して現れた、金色の龍だ。龍は辰(たつ)。春画らしく「起つ」に言葉をかけているのだろう。
図版 11-17. 三幅対語判揃(さんぷくついごばんぞろえ)
三代歌川豊国(歌川国貞) 横大判 版元・新伊勢屋小兵衛 天保3年(1832)頃



左より、中村芝翫、沢村訥升、坂東秀朝。同題の歌舞伎狂言の一場面と思われるが、筋書きなどはわかっていない。 三幅対とは、3つ揃ってひとつの組をなすもの。ここでは3人の役者が揃いの碁盤縞の衣装をまとっている。
図版 11-18. 船中役者囲碁図
三代歌川豊国(歌川国貞) 大判3枚続 版元・遠州屋彦兵衛 嘉永(1848-54)



「大入丸」という名の納涼船で風流に隅田川下りを楽しむ役者たち。碁を打っているふたりのうち、右が八代目市川団十郎。 屋根の上でくつろいでいるのは、下のクラスの役者か裏方の面々だろうか。
図版 11-19. 童戯武者尽
歌川広重 小判 版元・若狭屋与一 安政1年(1854)



碁盤人形を操る旅芸人。碁盤人形とは碁盤の上で手遣い人形を躍らせる芸で、始まりははっきりしないが、元禄期 (1688‐1704)にはすでに人気があったようだ。やがてこれをまねて人間が碁盤の上で踊るようになり、歌舞伎の子ども役者の 芸や座敷芸となった。歌舞伎役者で舞踊の名手だった佐渡嶋長五郎(さどしまちょうごろう 1700‐57)は、 著書『佐渡嶋日記』に、子どもの時に碁盤人形を踊ったと綴っている。

わたしは5歳から父・伝八に所作事(歌舞伎舞踊)の手ほどきを受けた。父に連れられて江戸へ下り、碁盤人形と称して碁盤の上で踊ったところ、あちらこちらより声がかかり、春から9月までつとめた。 ある身分の高いお方には特に贔屓にしていただき、何度も召されて芸をお目にかけた。 その方はしまいには、わたしが碁盤の上に座っている唐津焼の人形を、3体も作らせてしまわれたほどだ。 その年の10月に京都へ上る道中では、宿に泊まるたびに望まれて踊った。しかし9歳になると、もはや碁盤に乗ることはできなくなってしまった。
図版 11-20. 碁盤人形
葛飾北斎 摺物 版元未詳 文政3年(1820)



俳諧師グループの摺物。
図版 11-21. 六代目市川団蔵
二代歌川国貞 大判3枚続の1枚 伊勢屋兼吉 慶応1年(1865)



慶応1年江戸市村座初演「鶴千歳曾我門松(つるのちとせそがのかどまつ)」で 六字南無右衛門(むじなむえもん)を演じる六代目市川団蔵。 着物の柄は碁盤縞に黒白の碁石、さらに「南無阿弥陀仏」と書かれた将棋の駒がデザインされている。
図版 11-22. 西郷隆盛本営
三代歌川国貞(四代歌川国政) 大判 版元未詳 明治11年(1878)



西南戦争で、明治政府軍の総攻撃を前に碁を打つ西郷隆盛。政府の参議であった西郷は、明治6年の政変で下野(図版4‐6参照)。 郷里鹿児島へ戻り、士族の私学校を設立して子弟の教育につとめた。明治10年、私学校党を中心とする士族らが大規模な反政府 暴動を起こすと、彼らと運命を共にすることを決意。激戦の末、政府軍に敗れ、同年9月に自刃した。

本図は鹿児島城山の薩軍本営。戦局は厳しく、敵に討たれた同志の首を歩哨が持ち帰ったところだ。 政府軍が軍旗をはためかせつつ迫る中、西郷は心静かに碁を打っている。

国政はこうした場面を実際に見て描いたわけではない。だが、西郷が最後の日々を同志と語り合い、歌を詠み、碁を打ちながら 過ごしていたことは、史実として記されている。
図版 11-23. 俳優座敷遊戯図(はいゆうざしきあそびのず)
吟光 大判3枚続 版元・具足屋 明治8年(1875)



座敷で戯れる役者たち。前列中央で碁を打っているのは、四代目市川団十郎(右)と五代目坂東彦三郎。その左では将棋を指す者があり、ほかの役者たちは首引き大会に興じている。
図版 11-24. 新富座本普請落成秋狂言看客群集図(しんとみざほんぶしんしゅったいあききょうげんけんぶつぐんしゅうのず)
三代歌川国貞(四代歌川国政) 大判3枚続 版元・具足屋 明治11年(1878)





明治11年の江戸新富座本建築完成記念興行の図。幕が下りている状態と、狂言の一場面。演目は未詳。
図版 11-25. 粂寺弾正(くめでらだんじょう)
国秀 小判  版元未詳 明治42年(1909)



歌舞伎十八番のひとつ「毛抜」で粂寺弾正を演じる二代目市川左団次。 「毛抜」は寛保2年(1742)大坂佐渡嶋座初演「雷神不動北山桜(なるかみふどうきたやまざくら)」の3幕目が独立した時代狂言。 姫の髪が逆立つ奇病を弾正が磁石の仕掛けと見破り、お家騒動を解決するという筋立てで、碁はまったく関係しない。 左団次はこの碁盤模様の衣装を、寛政6年(1794)の公演時に五代目市川団十郎が着ていた衣装にならって着用した。
図版 11-26. 粂寺弾正
鳥居忠雅 大判 彰国社 昭和初期(1930年代)



粂寺弾正の碁盤模様の裃は、11−25図の左団次の公演以降、踏襲された。本図では模様の碁石が描かれていない。弾正の手前にあるのは、磁力によって立っている毛抜。弾正はこれを見て、曲者が磁石を持って天井裏にひそんでいることに気づく。
図版 11-27. 征清美談 名誉艦(せいしんびだん めいよかん)
尾形月耕 大判 版元・横山良八 明治28年(1895)



日清戦争(1894-95)のさなか、大日本帝国海軍の内田少佐が敵艦接近の報告を受けながらも、慌てずに勝負がつくまで碁を打ち続けたという逸話を描いている。左上に`Commander Uchida, J.I.N. Paying Go in front of His Enemy.'と英語のキャプション入り。`Playing'のスペルが`Paying'と間違っているものの、珍しい試みとして注目される。
図版 11-28. 岩川次郎吉
歌川豊国 大判 版元・木屋宗次郎 出版年未詳



碁盤縞の着物を着た歌舞伎役者絵。