Prince Genji 光源氏
5.光源氏

小君(こぎみ)が子どものため、宿直人(とのいびと)も機嫌をとりに話しかけてこないので、まず安心だった。小君は源氏に寝殿の東の妻戸口に立っていてもらい、自分は南側の隅の格子をたたいて上げさせて、なかへ入った。源氏の耳に、女房たちと小君の話し声が聞こえてきた。
「格子をおろしなさい。お座敷が外から見えてしまいます」
「こんなに暑いのに、どうしておろしておくのですか」
「お昼から西の対の軒端荻(のきばのおぎ)さまがおいでなのです。おふたりで碁を打っていらっしゃるのですよ」
 空蝉(うつせみ)と軒端荻が碁盤をはさんで向きあっている姿を、見てみたいものだ。源氏はそう思い、妻戸から忍び入って、簾と格子のあいだに身を隠した。さきほど小君の入った格子がまだ上げられたままだったので、その隙間から座敷の西のほうをのぞくと、格子のそばに立ててある屏風は端がたたまれているうえ、目隠し用の几帳も暑さのためか帷子がまくり上げられており、とてもよく見通すことができた。

 

『源氏物語』は平安後期に成立した長編小説である。物語中に囲碁が何度か登場するが、冒頭に紹介したのは、第3巻「空蝉」の一場面。空蝉と、その継娘の軒端荻が碁を打っている様子をかいま見る光源氏(ひかるげんじ)――この場面は成立から数百年後、細部を変えながらくり返し浮世絵に描かれ、江戸末期の20年間は庶民に格別好まれることになる。物語の作者・紫式部は、一条天皇の中宮彰子に仕えた非凡な女流作家。『源氏物語』は写本の流布とともに、紫式部の文名を高めた。そしてすぐに古典化し、やがて仏教の経典にも劣らぬ地位を占めるまでになっていく。

 

平安時代の宮廷貴族の多くは、ビクトリア時代のイギリス人紳士淑女と同じように、絵のたしなみがあった。そこで『源氏物語』の印象的な場面を描いて楽しむことが流行し、鎌倉初期にはひとつの画題として定着した。プロ、アマを問わず絵を描くための手引書まで作られ、『こちらに光源氏が立ち、むこうに女たちが座っていて、近くに灯が置かれている。奥の窓ごしに庭が見え、季節は夏である……』というふうに各場面がくわしく解説されていた。

 

物語の評判がいよいよ高まり庶民にも広まるにつれて、絵も12枚つなぎの屏風のような大物から根付などの小物にいたるまで、さまざまな形で描かれるようになった。画帖や木版画は江戸初期からすでに見られていたが、幕末になって大流行したのが、今日〈源氏絵(げんじえ)〉とよばれている一連の浮世絵だ。源氏絵とは草双紙合巻(くさぞうしごうかん)『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』の登場人物を配した錦絵で、美人画ふうの華やかな趣があり、『源氏物語』を描いた正統的な絵画とは一線を画する。

 

『偐紫田舎源氏』は旗本出身の戯作者・柳亭種彦(りゅうてい・たねひこ)が『源氏物語』の世界を室町時代に移して翻案し、歌川国貞が挿絵をつけたもので、文政12年(1829)から天保13年(1842)まで38編が刊行されて大ヒットした。

 

主人公は『源氏物語』の主人公・光源氏ではなく、室町幕府第八代将軍足利義政の息子・光氏(みつうじ)。光源氏が帝の正妻の子でなかったように、光氏もまた義政の正妻の子ではない。好色家をよそおった光氏が、数々の女人と浮名を流しながらお家騒動を解決していくという筋立てで、『源氏物語』の主要場面が巧みに翻案されており、原典をよく知る読者にはいっそう楽しめる内容となっていた。

 

こうした趣向のおもしろさもさることながら、成功に大きく貢献したのが、国貞による挿絵だ。合巻は文字よりも絵が中心の読み物。すぐれた考証家であった種彦の下絵をもとに、国貞は華麗な物語世界を描きだし、世の女性たちの心をとらえた。そして第11編が刊行されるころから、合巻とは別に独立した錦絵が出版され、飛ぶように売れたのだった。

 

源氏絵に描かれていたのは、豪奢な調度品に囲まれ、あでやかに着飾った貴人たちの姿であり、室町時代というよりもむしろ江戸末期の最新ファッションや風俗に彩られていた。さらに、版元は版型を高価で制作に手間のかかる大判3枚続にしたり、彫師や摺師に当代きっての名人を使ったりして客を惹きつけた。その結果、源氏絵はどんどん華美になり、扇、うちわ、絵馬、羽子板、衣類、調度品、吉原の灯籠など、あらゆるものにあしらわれるようになっていった。

 

しかし、このぜいたくさがあだになり、天保13年(1842)、あらゆる奢侈を禁じる天保の改革によって『偐紫田舎源氏』は幕府から絶版を命じられてしまう。責めを受けた種彦はその年のうちに死去(病死説が有力だが自殺説もある)。それでも源氏絵の圧倒的な人気は、少しも衰えることなく続いた。

 

いっぽう、天保の改革で役者絵と遊女絵が禁止されたため、浮世絵は故事や文学に題材を求めることが多くなった。そこで浮世絵師たちはみな一様に源氏絵を手がけたが、すでに国貞が本家本元としてゆるぎない地位を築いており、門弟ともども長年にわたって市場を独占していた。国貞の友であり、よきライバルでもあった武者絵の第一人者・歌川国芳も源氏絵を試みたが、国貞一門には太刀打ちできなかったほどだ。

 

国貞と門弟たちは主な登場人物の顔を、当時の人気役者の顔に似せて描いた。そんなところもまた、芝居好きの庶民に受けたのだろう。ちなみに光氏のモデルは、眉目秀麗で品のよい五世坂東彦三郎だ。しかし当時は役者名を書き入れる習慣がなかったので、版元は役者絵禁止令にも「これはただの古典文学の絵ですから」と言い逃れ、とがめを受けずにすんでいた。

 

このような人気ぶりから、『偐紫田舎源氏』の歌舞伎化もさっそく行われた。なかでも嘉永4年(1851)に江戸市村座で上演された八世市川団十郎主演の狂言「源氏模様娘雛形(げんじもようふりそでひながた)」――日本の古典芸能の題名には独特の趣があるものだ――は、衣裳も装置も国貞の挿絵をもとにデザインされ、大当たりをとった。そのなかの「野中の古寺の場」の舞踊は、清元「田舎源氏露東雲v(つゆのしののめ)」に変えられて今日まで伝わっている。こうして合巻、錦絵、歌舞伎の相乗効果によって爆発的な源氏ブームが巻き起こり、江戸時代の終焉までえんえんと続いたのである。

 

『偐紫田舎源氏』が絶版処分を受けたのは、光氏のモデルが徳川幕府第十一代将軍家斎(いえなり:在職1787−1837)と噂されたためだという説もある。なにしろ家斎の大奥での享楽ぶりは、巷にまで聞こえていたからだ。その真偽はともかくとして、のちの源氏絵には「源氏」と画題はついていても、将軍家や宮家の人々を描いたと思われるものが多数見受けられる。直接名前を出すことをはばかって源氏絵のスタイルを借りたのだろうが、見る者はその人物が本当はだれをあらわしているのか容易に想像することができた。

 

時は動乱の幕末。庶民は財政逼迫によるさまざまな禁令に苦しみ、高まる政変のきざしに大きな不安をいだいていた。そんな人々の目に源氏絵は、浮世のつらさを忘れさせてくれる、のどかで幸福な世界と映ったことだろう。源氏ブームとは、みやびやかな貴族社会への、江戸庶民の夢と憧れの体現だったのである。