浮世絵と囲碁
ウィリアム・ピンカード:著
浮世絵収集家あるいは囲碁愛好家の方々は、世界中に大勢おられるだろう。けれども、囲碁の道具や対局場面を描いた浮世絵――いわゆる囲碁図――に特別な関心をお持ちの方は、少ないのではないだろうか。
囲碁の起源については、今もなお、はっきりわかっていない。インドが発祥地だという説もあるが、一般的には3000年以上前に中国で占星術として始まり、発達したと考えられている。日本へは5世紀か6世紀に伝わったらしく、僧侶から貴族、武家、そして庶民へと次第に普及してきた。こうした広まりを背景に、日本の芸術家たちは、囲碁をモチーフにしたさまざまな作品を創作している。木彫、象牙彫、金属細工、粘土細工、掛け軸、絵巻物、屏風絵……。そしてその中で、もっとも作品点数が多いのが浮世絵だ。
浮世絵は囲碁が庶民にも親しまれるようになった江戸時代に、江戸庶民によって生み出され育てられた、世界に誇れる日本の美術だ。
江戸庶民は芸術全般について、斬新な作品よりも、すでになじみのある作品を好む傾向があった。
よく知られている古典文学、哲学、故事、説話を主なテーマにとる浮世絵は、そんな人々の心をとらえ、広く愛された。
庶民の好みに合わせて、浮世絵師たちは同じテーマをくり返し描き続けた。
内容がよく知られていたので、画の一部を当世風に変えて、もとが何かを当てさせることもできた。
たとえば琴棋書画(きんきしょが)の図では、中国の知識人を江戸風俗の女や子どもに変えたり、一弦琴を凧の糸で表現したりしている(「2.琴棋書画」参照)。
この「浮世絵と囲碁」では、庶民が特に好んだ囲碁図のテーマを10項目選んで1章から10章までとし、そこに含まれなかったものを11章「暮らしのなかの囲碁」にまとめた。章ごとに説明文と図版を掲載しているので、左の目次の中から興味を持たれた章をクリックしていただきたい。なお、浮世絵について簡単な解説を以下に記した。浮世絵と囲碁の関わりを通して、それぞれの魅力にふれていただければ、大変幸せに思う。
浮世絵版画とは
――肉筆浮世絵と浮世絵版画――
浮世絵には肉筆画と版画がある。肉筆浮世絵は絵師が紙や絹に描いた直筆画。同じものはふたつとない高価な品であるため、裕福な家の床の間などで鑑賞された。いっぽう浮世絵版画は、大量生産できて庶民にも求めやすい木版画。肉筆画に比べると圧倒的に数が多く、一般に浮世絵といえば版画とみなされている。この「浮世絵と囲碁」で紹介している図版も、ほとんどが版画だ。それでは浮世絵版画とは、どのようなものなのだろうか?
――浮世絵版画の成り立ち――
浮世絵版画は、版本と呼ばれる絵本と、一枚絵とに分けられる。日本の木版画の歴史は古く、平安時代にはすでに仏画が印刷されていた。江戸時代になると、御伽草子や仮名草子などの大衆向け絵本が京都で刊行され、大坂、江戸へと広まる。当時、江戸の文化はすべてこのような上方(京阪地方)からの流入だったが、明暦3年(1657)の大火後、復興景気に活気づく中で、江戸独自の文化を生み出そうとする風潮が高まった。そして絵本が盛んに出版されるうち、文章より挿絵の比重が大きくなり、やがて独立した一枚絵が鑑賞用に売り出されるようになった。こうして誕生した浮世絵版画美術は、その時どきの大衆の好みを映しながら、江戸時代の終焉まで大輪の花を咲かせ続けることになる。
――浮世絵版画の制作――
浮世絵版画は次のような工程で作られる。
- 版元(出版社)が絵師に作画を依頼する。
- 絵師が薄紙に墨で線描きの版下絵を描く。画中の文字は絵師が書く場合と、専門の筆耕が書く場合が
ある。
- 版元は町奉行所管轄の絵草紙問屋組合行事(天保の改革中は町名主)に版下絵を提出して検閲を受け、改印(あらためいん)を捺してもらう。改印は時代によって変化しているので、制作時期を調べる手がかりとなる。
- 彫師(ほりし)が版下絵を桜の版木に裏返して貼り、彫刻刀で主版(おもはん)を彫る。版下絵はこの時に消失する。
- 摺師(すりし)が主版の墨摺をバレンで10数枚摺る。
- 絵師が墨摺に細かい部分を描きこむとともに、朱文字で色を指定する。色指定は色ごとに別の墨摺を使う。たとえば10色摺の版画にしたければ、10枚の墨摺が必要となる。
- 色指定に従い、彫師が色版を彫る。色版も色数だけ必要となる。
- 摺師が試し摺を摺る。
- 絵師のOKが出れば、初摺(しょずり)200枚を摺る。
- 版元は初摺を再び行事に提出し、手数料と出版税を支払う。
- 絵草紙屋にて販売する。
このように、浮世絵版画は最初から最後まですべて手作業で制作された。そのため1枚ずつ微妙に摺り上がりが異なるところが、ヨーロッパのプレス式印刷と比べて面白い。
初摺は摺師ひとりの1日の仕事量にあたる200枚が通常だが、売れ筋の商品はもっと多く摺られた。売れ行きがよければ追加で摺り、これを後摺(あとずり)という。しかし版を重ねるにつれて原版が傷むうえ、注文に間に合わせるために色数を減らしたり、安い顔料を使ったりしたので、あとになるほど品質は落ちた。たとえば広重の有名な風景画などは何度も出版されたが、初期のものと後期のものとでは、出来ばえに雲泥の差がある。また、版元が売上を伸ばすために色を変え、印象がまったく変わってしまうこともあった。けれども囲碁図に関しては、浮世絵版画全体からすると少数なので、このような憂き目にはあっていない(そのぶん収集には苦労するのだが。どれほど探し回っても、せいぜい2000‐3000図に1図見つかるくらいだろうか)。
20世紀に入るまで、日本の版画には欧米のモダンアートのように通し番号や作者のサインを書き入れる習慣がなく、
代わりに絵師の落款(署名または号の印)、版元の名(または屋号、商標)、改印を画面か余白に摺っていた。
画面にはたいてい画題を入れたほか、描かれている人物の名を添えることもあった。
19世紀後半から、浮世絵版画は海外で高く評価され、盛んに収集され始めた。だが当の日本人にとっては、あくまでも芝居や江戸見物、廓遊びなどの安いみやげ物でしかなく、うちわ絵やおもちゃ絵に至っては完全な消耗品だった。
このように価値が低かったため、庶民に広く愛されたにもかかわらず、現在では国内にあまり残っていない。
さらに保存が難しいことも、数を少なくしている一因だろう。
傷つきやすいうえ、湿気、カビ、虫、直射日光、酸などに弱い。浮世絵版画を買い求めたら、強い光が当る場所に吊り下げるのは避け、美術館のように額に入れることをお勧めする。
――浮世絵版画のサイズ――
浮世絵版画のサイズは一定していない。なぜなら、時代によって使う紙が異なったし、機械生産ではないため規格も統一されていなかったからだ。
紙の大きさの目安はだいたい次のようになる。
- 丈長奉書(たけながぼうしょ) 縦72‐77cm×横52.5cm
- 大広奉書(おおびろぼうしょ) 縦58cm×横44cm
- 大奉書(おおぼうしょ) 縦39cm×横53.5cm
- 中奉書(ちゅうぼうしょ) 縦36cm×横50cm
- 小奉書(こぼうしょ) 縦33cm×横47cm
錦絵が誕生してからは大奉書が多く使われている。これらの紙を切ったりつないだりして、好みの大きさに仕立てた。主に使われたサイズを以下にご紹介するが、もともと画集だったものを切り離して売ることも多く、これより小さめの画もよく見られる。
- 大判(おおばん)
- 大奉書の縦2つ切り。もっとも一般的なサイズ。縦39cm×横26.5cm
- 中判(ちゅうばん)
- 大奉書の4分の1。大判の横2つ切り。縦19.5cm×横26.5cm
- 小判(こばん)
- 大奉書の8分の1。大判の4分の1。縦19.5cm×横13cm
- 大短冊判(おおたんざくばん)
- 大奉書の縦3つ切り。縦39cm×横18cm
- 中短冊判(ちゅうたんざくばん)
- 大奉書の縦4つ切り。縦39cm×横13cm
- 小短冊判(しょうたんざくばん)
- 大奉書の縦6つ切り。縦39cm×横9cm
- 色紙判(しきしばん)
- 大奉書の6分の1。ほかの紙より厚手。 縦20.5cm×横18.5cm
- 長判(ながばん)
- 大奉書の横2つ切り。縦19.5cm×横53.5cm
- 掛物絵(かけものえ)
- 大判の縦2枚つなぎ。縦78cm×横26.5cm
- 柱絵(はしらえ)
- @丈長奉書の縦3つ切り。縦72‐77cm×横17cm
- A丈長奉書の縦4つ切り。縦72‐77cm×横13cm
- 細判(ほそばん)
- @小奉書の縦3つ切り。縦33cm×横15cm
- A小奉書の横2つ切り。縦16cm×横47cm
- 続絵(つづきえ)
- 同じ大きさの紙を並べて大画面にしたもの。
大判を横に3枚並べた大判3枚続が一般的だが、5枚続や6枚続もある。
また、縦に2枚、3枚とつないだり、まれに3枚続を上下に並べて6枚にする場合もあった。
続絵は1枚ずつが独立した画でありながら、つなぐことによってさらにスケールの大きな作品にまとまるよう構成されている。
それぞれの画は別々に摺られ、ばら売りされたので、現在では1枚しか見つからないことも多い。
――浮世絵版画の技法――
浮世絵版画の技術は時代とともに発展してきた。初期から順を追って見ていこう。
- 墨摺絵(すみずりえ):延宝(1673‐1680)頃
菱川師宣の描く絵本の挿絵が江戸で人気を呼び、一枚絵に独立。当時の版画は墨1色だったため、墨摺絵といわれる。摺ったあとに筆彩する場合もあった。
- 丹絵(たんえ):延宝頃〜享保(1716‐36)初期
墨摺絵に筆で色を加えた彩色絵。鉛を焼いて作る丹色を主に、緑や黄を加えた。
- 紅絵(べにえ):享保初期〜宝暦(1751‐64)頃
墨摺絵に丹の代わりに紅を彩色した絵。和泉屋権四郎という版元が始めたといわれる。
- 漆絵(うるしえ):享保初期〜宝暦頃
紅絵の一種。墨に膠を混ぜて漆のような光沢を出したもの。部分的に真鍮粉をまき、金のようにみせた。
- 紅摺絵(べにずりえ):寛保(1741‐44)頃〜宝暦頃
初歩的多色摺版画。墨、紅、緑の3色が多いが、末期には藍や黄も加えて5色ほどになった。
- 錦絵(にしきえ):明和2年(1765)〜
明和2年、絵暦交換会の流行をきっかけに多色摺の開発が進められ、ついに鈴木春信が中心となって、何色でも版彩できる技術を完成させた。錦のように美しいことから「錦絵」、また特に上方に対し江戸で刊行された錦絵という意味で「東錦絵(あずまにしきえ)」と呼ばれる。
錦絵の誕生は浮世絵版画に大きな変革をもたらした。紙は重ね摺に耐えられるよう厚く上質な奉書になり、顔料も中間色が作り出された。それとともに錦絵をいっそう華やかに見せる技法も工夫された。雲母をふりかける「雲母摺(きらずり)」のほか、金粉をふりかけたり、白い顔料をかけて雪に見せたり、顔料に貝の粉末や金銀を混ぜたりもした。彫はどんどん緻密になり、摺の技術も発達する。上方では「合羽摺(かっぱずり)」というステンシル方式の手法が好まれた。これは墨摺絵の上に型紙を置き、切り抜いてある部分に刷毛で色をつけるものだ。版木に傾斜をつけて色をぼかす「板ぼかし」や、水をたらした版木の上に顔料を落としてにじませる「当てなしぼかし」など、さまざまな「ぼかし」も考案され、微妙な濃淡を出せるようにもなった。金をかけた贅沢な印刷はしばしば禁止されたが、無許可で作られる私的な錦絵には、常に最先端の技術が生かされていた。
なお、この「浮世絵と囲碁」の図版はほとんど錦絵だが、カラー写真が入手できなかったためモノクロで掲載したものが数点ある。あらかじめご了承いただきたい。
――浮世絵版画の内容――
浮世絵は庶民による庶民のための美術。描かれる内容も庶民の好む当世風俗が中心だった。
-
- ・美人画
- 役者絵とともに浮世絵の中心的存在。はじめは吉原の高級遊女だけだったが、次第に岡場所(私娼街)の遊女、芸者、町娘なども描かれるようになっていった。
- ・役者絵
- 江戸庶民の最大の娯楽、歌舞伎を題材にした図。現代ならブロマイドといえる似顔絵から、舞台そのものを描いた芝居絵、人気役者をほかの人物に見立てた創作的な図まで、バラエティに富んでいる。
- ・武者絵
- 日本や中国の英雄豪傑、合戦場面の図。実在の人物だけでなく物語や伝説中の人物も多く、歌舞伎からも大きな影響を受けた。織田信長以後の武人を描くことは幕府に禁じられていた。
- ・風景画・花鳥画
- 日本画では中国美術の流入により古くから確立していたが、浮世絵でも次第に主要なジャンルになっていった。現代と違って気軽に旅行などできなかった当時の人々にとって、風景画は絵葉書のようなものだったろう。花鳥画は身近な題材に俳句などを添えた、季節感のある作品が好まれた。
- ・摺物(すりもの)
- 自費出版の浮世絵版画。狂歌師や俳諧師が自分の作品に画をつけてもらうほか、絵暦や各種宣伝など、さまざまな目的で作られた。紙は厚めの色紙判が多く、印刷には贅が尽くされた。
- ・春画(しゅんが)
- 男女の愛の営みを描いた図。秘画、枕絵ともいう。禁令下でも極秘出版が跡を絶たず、ほとんどの絵師が手がけている。
- ・上方絵(かみがたえ)
- 江戸で出版された江戸絵に対し、上方で出版された浮世絵。役者絵が多く、鮮やかな色使いが特徴。厚めの小判の紙がよく用いられた。
- ・横浜絵・開化絵
- 安政6年(1859)横浜開港、慶応3年(1867)大政奉還――文明開化を迎えた日本に、
西洋文明の波がどっと押し寄せてきた。その様子を報道写真のように伝えたのが、横浜絵と開化絵だ。
横浜絵は江戸の版元から出版され、開港後の2年間ブームになった。
明治に入ると安い染料が輸入され、色調は一気にけばけばしくなる。特に赤が多用されたため「赤絵」とも呼ばれた。
横浜絵・開化絵が一世を風靡したのもつかの間、次々に登場する油絵、石版画、写真などに押され、浮世絵はだんだん売れなくなっていった。明治27年(1894)に日清戦争が勃発すると、国をあげて戦争画ブームが起き、浮世絵は最後のひと花を咲かせる。だがそれも長くは続かず、戦争後は急速に衰退した。しかし、いったんは絶えてしまったかと思われた浮世絵版画も、大正時代に入ると再び息を吹き返し、新たな道を歩み始めている。
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- ・創作版画
- 従来の分業とは違い、作画、彫、摺の工程をすべてひとりで行う版画。
イギリスのアーツアンドクラフト運動、ドイツ表現派、カンディンスキーなどの影響を受けて、
明治40年(1907)に創刊された美術誌『方寸(ほうすん)』が先駆となり、創作版画運動が提唱された。
大正7年(1918)に日本創作版画協会が結成され、昭和6年(1931)には洋風版画会をあわせて日本版画協会と改められた。
- ・新版画
- 大正5年(1916)頃から昭和30年(1955)頃にかけて、渡辺版画店が出版した版画。伝統的な浮世絵版画の技法を継承しつつ、新しい才能を発掘した。
浮世絵版画には、知っているとさらに鑑賞が楽しくなる独特の表現方法がある。最後にそれをいくつかご紹介しよう。
-
- ・大首絵(おおくびえ)
- 人物の上半身だけを描いた図。
このうち顔だけをクローズアップしたものを特に「大顔絵(おおがおえ)」と呼ぶ。役者の表情や美女の美貌を間近で鑑賞したいという要望から生まれた。写楽、歌麿によってひとつの頂点に達する。
- ・見立絵(みたてえ)
- だれもが知っている故事、説話などを題材にしながら、人物、風景、小道具などの一部を当世風に置き換えて描いた図。
- ・判じ絵(はんじえ)
- 文字や画にある意味を隠しておき、見る者にそれを当てさせる図。「さとり絵」ともいう。
- ・こま絵
- 画面の一部にカットのように添えられた文字または画。たいていは枠で囲んである。
テーマと関連して、判じ絵の役目をしたり、揃物のまとめ役をしたりと、さまざまな使い方をされている。
主な浮世絵師
江戸時代から現代までの主な浮世絵師一覧。生没年不明の場合は(活)として活動期を示す。
また、掲載している図版の浮世絵師を目次末尾の「浮世絵師別索引」にまとめたので、そちらもあわせてご利用いただきたい。
江戸時代
葵岡(魚屋)北渓(あおいがおか(ととや)・ほっけい)安永9‐嘉永3(1780-1850)
号・葵園 他
磯田湖龍斎(いそだ・こりゅうさい) (活)明和‐天明(1764-1788)頃
歌川国芳(うたがわ・くによし) 寛政9‐文久1(1797-1861)
号・一勇斎、朝桜楼 他
歌川豊国(うたがわ・とよくに) 明和6‐文政8(1769-1825)
号・一陽斎
二代歌川豊国(歌川豊重 うたがわ・とよしげ) 安永6‐天保6(1777-1835)
号・一陽斎 他
三代歌川豊国(歌川国貞 うたがわ・くにさだ) 天明6‐元治1(1786-1864)
号・五渡亭、一雄斎、香蝶楼 他
歌川豊春(うたがわ・とよはる) 享保20‐文化11(1735-1814)
号・一竜斎 他
歌川(安藤)広重(うたがわ(あんどう)・ひろしげ) 寛政9‐安政5(1797-1858)
号・一遊斎、一幽斎、一立斎、歌重 他
二代歌川広重(歌川重宣 うたがわ・しげのぶ) 文政9‐明治2(1826-1869)
号・立斎 他
奥村政信(おくむら・まさのぶ) 貞享3‐明和1(1686-1764)
号・法月堂 他
懐月堂安度(かいげつどう・あんど) (活)宝永‐正徳(1704-1715)頃
岳亭五岳(がくてい・ごがく) 天明6‐明治1(1786-1868)頃
号・岳山一老 他
勝川春英(かつかわ・しゅんえい) 宝暦12‐文政2(1762-1819)
号・旭徳斎、九徳斎
勝川春章(かつかわ・しゅんしょう) 享保11‐寛政4(1726-1792)
号・縦画生、李林 他
勝川春潮(かつかわ・しゅんちょう) (活)天明‐寛政(1781-1800)頃
号・雄芝堂 他
葛飾北斎(かつしか・ほくさい) 宝暦10‐嘉永2(1760-1849)
号・春朗、宗理、戴斗、為一 他30以上
菊川英山(きくかわ・えいざん) 天明7‐慶応3(1787-1867)
号・重九斎
喜多川歌麿(きたがわ・うたまろ) 宝暦3‐文化3(1753-1806)頃
号・豊章、歌麻呂 他
窪春満(くぼ・しゅんまん) 宝暦7‐文政3(1757-1820)
号・黄山堂 他
春江斎北英(しゅんこうさい・ほくえい) (活)文政・天保(1818-1843)頃
号・春梅斎 他
鈴木春信(すずき・はるのぶ) 享保9‐明和7(1724-1770)頃
号・長栄軒、思古人
鳥高斎栄昌(ちょうこうさい・えいしょう) (活)寛政5‐12(1793‐1800)頃
号・栄昌堂
東洲斎写楽(とうしゅうさい・しゃらく) (活)寛政6年5月‐7年1月(1794-1795)
鳥居清経(とりい・きよつね) (活)宝暦末‐安永(1760-1780)頃
鳥居清長(とりい・きよなが) 宝暦2‐文化12(1752-1815)
鳥居清信(とりい・きよのぶ) 寛文4‐享保14(1664-1729)
二代鳥居清信 元禄15‐宝暦2(1702-1752)
鳥居清広(とりい・きよひろ) (活)宝暦(1751-1763)
鳥居清倍(とりい・きよます) (活)元禄10‐享保7(1697-1722)頃
二代鳥居清倍 宝永3‐宝暦13(1706-1763)
鳥居清満(とりい・きよみつ) 享保20‐天明5(1735-1785)
菱川師宣(ひしかわ・もろのぶ) 寛永7‐元禄7(1630-1694)頃
号・友竹
明治時代
三代歌川国貞(四代歌川国政 うたがわ・くにまさ)嘉永1‐大正9(1848‐1920)
号・梅堂豊斎 他
歌川貞秀(うたがわ・さだひで) 文化4‐明治12(1807-1879)頃
号・五雲亭、玉蘭斎
河鍋暁斎(かわなべ・ぎょうさい(きょうさい))天保2‐明治22(1831-1889)
号・狂斎、惺々 他
小林清親(こばやし・きよちか) 弘化4‐大正4(1847-1915)
号・方円舎、真生楼 他
月岡芳年(つきおか・よしとし) 天保10‐明治25(1839-1892)
号・大蘇、玉桜斎 他
豊原国周(とよはら・くにちか) 天保6‐明治33(1835-1900)
号・花蝶斎、一鶯斎 他
楊洲周延(ようしゅう・ちかのぶ) 天保9‐大正1(1838-1912)
大正・昭和時代
恩地孝四郎(おんち・こうしろう) 明治24‐昭和30(1891-1955)
川瀬巴水(かわせ・はすい) 明治16‐昭和32(1883-1957)
北野恒富(きたの・つねとみ) 明治13‐昭和22(1880-1947)
小早川清(こばやかわ・きよし) 明治30‐昭和23(1897-1948)
弦屋光渓(つるや・こうけい) 昭和21‐(1946-)
橋口五葉(はしぐち・ごよう) 明治13‐大正10(1880-1921)
平塚運一(ひらつか・うんいち) 明治28‐平成9(1895-1997)
棟方志功(むなかた・しこう) 明治36‐昭和50(1903-1975)
山本鼎(やまもと・かなえ) 明治15‐昭和21(1882-1946)
吉田博(よしだ・ひろし) 明治9‐昭和25(1876-1950)
参考文献
日本語翻訳にあたり、下記の資料を参考にさせていただいた。英文参考文献については、英文ページをご覧いただきたい。
・「浮世絵の基礎知識」 吉田漱著 1987年 雄山閣
・「浮世絵入門」 稲垣進一編 1997年 河出書房新社
・「世界大百科事典 第2版」 CD-ROM版 日立デジタル平凡社
著者および編集スタッフ
この「浮世絵と囲碁」の文章は、故ウィリアム・ピンカード氏の遺稿に加筆訂正したものだ。
氏は囲碁図の調査と収集に長年情熱を傾け、その成果を本にまとめて出版しようとしておられたが、不幸にも志なかばにして病に倒れ、1989年に不帰の客となられた。
亡くなる直前、私は氏から「あとをよろしく頼む」という言葉とともに、下書きの原稿と囲碁図のコレクションを託された。
しかし、必ず出版しますと約束したものの、前途は多難だった。
だれの文章でも下書きには手直しが必要なものだし、それ以前に氏の調査自体がまだ終わってはいなかったからだ。
実際、私ひとりでは、責任を果たせたかどうかわからない。
こうして無事に完成まで漕ぎつけることができたのは、よき協力者に恵まれたおかげだ。
多年にわたり貴重な資料および助言をくださった、囲碁ミュージアム館長の水口藤雄氏。
すべての英文に目を通し、膨大な調べ物の山と格闘してくれた、翻訳者の北川明子さん。
そして原稿をくまなくチェックし、第10章の執筆を快く引き受けてくださった、美術評論家のジュリー・ラモント女史。
この場を借り、厚くお礼を申し上げる。
2000年10月1日
リチャード・ボズリッチ